曲を配信に出す話になると、「最後にマスタリングをしておいてください」と言われることがあります。けれども、ミックスが終わった音源に対して、まだ何をする余地があるのかは、作り手の側からも発注する側からも見えにくい工程です。「音を大きくする作業」「仕上げに少し化粧をする作業」といった漠然とした理解のまま、依頼や見積もりが進むことも珍しくありません。
マスタリングの中身を並べてみると、耳で判断する音色の調整だけでなく、アルバムとしての曲順と曲間の設計、デジタルの数値を目的の形式へ落とし込む処理、そしてプレス工場や配信サービスへ渡すためのデータと識別コードの管理までが含まれます。どれも、録音物が「作品」から「製品」になる境目で必要になる作業です。
この記事では、言葉の由来から始めて作業の中身を工程ごとに分解します。外注の手順は ミックスとマスタリングを外注するとき何を渡し何を伝えるか で扱っているので、ここでは「マスタリングそのものが何をしているのか」に絞ります。
「マスター」はもともと円盤だった — 工程の名前の由来
マスタリング(mastering)は「マスターを作ること」を意味します。アナログレコードの時代、このマスターは文字どおり1枚の円盤でした。カッティングレース(溝を刻む旋盤)でラッカー盤に音溝を刻み、そこからメッキで金属の型を起こし、プレス用のスタンパー(金型)を作ります。最初に溝を刻むこの工程を担っていたのが、カッティングエンジニアと呼ばれる専門職です。
日本でカッティングからプレスまでを一貫して行っている東洋化成(横浜市)の取材記事が、日本オーディオ協会の会報『JAS Journal』2018年3月号に載っています。それによると同社は1959年の創業で、1961年にLPレコードの製造を始め、1966年にはメッキ工場の操業と原盤カッティングの受託を始めました。取材時点では、ドイツのノイマン(Neumann)製カッティングレースVMS70とVMS80の2台が、別々のカッティング室で稼働していました。
同じ記事には、マスタリングが何と戦ってきたのかを示す証言があります。レコード会社から持ち込まれるマスターはデジタルが9割を占め、高域が伸びた音が多いこと。収録時間の長い盤はカッティングレベル(溝に刻む音の大きさ)を下げて対応すること。溝の幅と間隔には物理的な上限があるため、片面に長く入れるほど音を小さく刻まざるを得ないのです。歯擦音(サ行の鋭い音)が強いと高域を守るための電気的なリミッターが働いてしまう、という話も出てきます。
マスタリングは出発点からして「そのままでは入らない器に、意図を損なわずに音を収める技術」でした。器がCD、ファイル、配信へと変わっても、この性格は変わっていません。

耳で決める仕事 — 音色・ダイナミクス・ステレオ像
マスタリングで最もよく知られているのは、全体の音色と音量感を整える作業です。Apple が配信向けマスタリングの技術資料「Apple Digital Masters」で、この点を端的にまとめています。マスタリングの主な道具はイコライザー、コンプレッサー、リミッターとその組み合わせで、それらはすべて音量のある側面を制御する方法であり、ゲイン、ダイナミックレンジ、周波数特性について判断することこそがマスタリングだ、という説明です。
イコライザーとコンプレッサーの役割
イコライザー(EQ)は、低音・高音など特定の周波数帯の音量を上げ下げする道具です。ミックスでは楽器ごとにかけますが、マスタリングでは2本のステレオ信号全体にかけます。ボーカルだけを持ち上げることはできないので、一つひとつの操作は控えめになり、効果も曲全体に及びます。
コンプレッサーは、時間とともに変わる音量を自動で制御する道具で、大きな音を抑えたり小さな音を持ち上げたりしてダイナミックレンジ(最も小さい音と最も大きい音の差)を狭めます。周波数帯ごとに分けてかけるものはマルチバンド・コンプレッサーと呼ばれ、たとえばボーカルに触れずに低音だけを抑えることができます。リミッターは、比率を極端に高くした速いコンプレッサーで、ピーク(瞬間的な最大値)が上限を超えないよう押さえます。
引き算と「別の耳」
ステレオ像の調整もここに含まれます。左右の信号を「中央成分(Mid)」と「左右の差の成分(Side)」に分けて処理するM/S処理を使えば、中央のボーカルやベースはそのままに、広がりの成分だけを少し強める、といった調整ができます。
ミックスの段階で崩れたバランスは、これらの道具でも根本からは直せません。マスタリングを、ミックスをした人とは別の人が、別の部屋とスピーカーで聴くことに価値があるとされるのはこのためです。慣れた部屋で何度も聴いた耳では気づけない低音の膨らみや、特定の帯域のきつさを、第三者の耳と別の再生環境で見つけるのが、この工程の役割の一つだとされています。
アルバムを一枚の作品にする — 曲順・曲間・音量の流れ
1曲だけを見ていると見落としがちですが、マスタリングの歴史的な役割の大きな部分は、複数の曲を一つの作品として並べることにあります。曲順を確定し、曲と曲のあいだの無音の長さを決め、フェードアウトの終わり方を整え、曲ごとの音量の関係を設計します。
たとえば、静かなバラードの次に激しい曲が来るアルバムで、両方を同じ音量感に揃えてしまうと、バラードが不自然に大きく聞こえ、作品の起伏が消えます。逆に、すべてを曲単位でばらばらに仕上げると、通して聴いたときに曲が変わるたびに音量や音色が跳ねます。前出の Apple の資料も、アルバム全体を通して音量を上げ下げし、聴き手を起伏のある旅に連れ出すことも、常に最大の音量を目指すことも、技術的かつ創造的な選択だとしています。
この「アルバム単位の音量」は、配信サービスの音量調整とも関係します。Apple Music の Sound Check は曲の音量を測ってメタデータに書き込み、再生時に揃える機能ですが、曲単位ではなくアルバム単位で音量を設定することもでき、曲間の音量差に意味があるアルバムの意図を保てると説明されています。Spotify も、アルバムを通して聴くときはアルバム単位で音量を揃えると案内しています。配信の音量基準の成り立ちは 配信のラウドネスはなぜ -14 LUFS なのか で詳しく扱いました。
曲間の設計は、データの上では「どこからが次の曲か」という位置情報になります。CDでは各トラックの開始位置や曲間の無音(プリギャップ)が、音声とは別のサブコードとして記録されます。曲順と曲間を決めることは、聴感の問題であると同時に、製品データを確定させる作業でもあります。
目に見えない最後の処理 — サンプルレート変換とディザ
ここからは、聴いただけでは分かりにくい処理の話です。録音やミックスは、24ビットや32ビット浮動小数点、48kHzや96kHzといった、出口より細かい形式で行うのが一般的です。一方、CDの規格は16ビット・44.1kHzで、1サンプルの値は-32,768から32,767までの整数しか取れません。細かい形式から粗い形式へ落とす変換が、どこかで必ず必要になります。
ビット深度を落とすときのディザ
ビット深度(1サンプルを何ビットで表すか)を24ビットから16ビットに落とすとき、余った下位のビットを単純に切り捨てる処理をトランケーション(切り捨て)と呼びます。Apple の資料は、これが量子化ひずみ(数値の丸めによって生じるひずみ)の原因になると説明しています。小さな音、たとえばピアノの余韻やリバーブの消え際で、元の音と相関した濁りとして現れます。
これを避けるのがディザ(dither)です。変換の直前にごく小さなノイズを加えることで、丸めの誤差を信号と無関係なノイズに変えます。代償として、わずかなノイズが加わります。Apple の資料の言葉を借りれば、ディザはひずみを減らす代わりにノイズを足す取引です。
この理論を体系的に整理したのが、カナダ・ウォータールー大学のスタンリー・リプシッツ(Stanley P. Lipshitz)氏らが1992年に米国オーディオ技術学会の論文誌(Journal of the Audio Engineering Society)に発表した「Quantization and Dither: A Theoretical Survey」です。三角形の確率分布をもつディザを適切な大きさで加えると、誤差の平均とパワーが元の信号に左右されなくなることなどが、そこで理論的に示されています。ディザは最後に一度だけかけるのが原則とされ、マスタリングがその最終地点になることが多いのはこのためです。
浮動小数点で受け取る配信サービス
配信では事情が少し変わります。Apple は前出の資料で、受け取ったマスターを高品質なサンプルレート変換で32ビット浮動小数点のファイルにしてから AAC に符号化するため、ディザを加える必要がないと説明しています。そのうえで、提出するのは24ビットの元のマスターとし、44.1kHz・16ビットのファイルを高いサンプルレートやビット深度に変換し直して出すこと(アップサンプリングや「ビット・パディング」)はしないよう求めています。失われた情報は戻らないからです。
同じ資料は、サンプルとサンプルのあいだで波形が最大値を超えるインターサンプル・ピークにも注意を促し、少なくとも1dBの余裕を残すことを推奨しています。数値の上で0dBFS(デジタルの最大値)を超えていなくても、再生機器や圧縮音声への変換で歪むことがあるためです。ファイル形式そのものの違いは WAV・FLAC・MP3・AAC の違いと、音源の納品形式の決め方 を参照してください。
工場と配信に渡すための情報 — DDP・PQ・ISRC
マスタリングの成果物は「良い音のファイル」だけではありません。工場や配信サービスが間違いなく製品にできる形で渡すことまでが仕事です。その代表がCDのマスターです。
Uマチックテープから DDP へ
日本レコード協会(RIAJ)が2005年10月7日に制定した「CD用マスタDDPファイル互換性ガイドライン」の前書きは、CDマスターの媒体の変遷を簡潔に記しています。長いあいだCD製造用マスターの標準は業務用ビデオテープのUマチックで、同協会は1992年に運用基準を定めました。しかし再生機は1995年8月に製造が終わり、後継として録音用CD-Rを使うPMCD(プリマスタリングCD)が広がります。そして、記録媒体に依存しないファイル形式のDDP(Disc Description Protocol)が標準として注目されるようになりました。
DDPは、米国のDCA社(Doug Carson & Associates)が1988年に光ディスクのプレス業界向けに開発した形式で、1998年にはバージョン2.00が出ています。音声データのほか、ISRCやPQ情報(各トラックの開始位置や曲間を示すサブコード)など、ディスクの製造に必要な要素を記述できます。DCA社は仕様をライセンス契約のうえで無償提供していますが、規格の拘束力が弱く、ソフトウェアごとに解釈の違うファイルが作られる問題がありました。前述のガイドラインはそれを防ぐために作られ、たとえばファイル名を「8文字以内+拡張子3文字以内」の短い形にするよう推奨しています。長い名前や漢字の名前だと、工場のカッティング装置が正常に動かないおそれがあるためです。
録音を識別する ISRC
もう一つが ISRC(International Standard Recording Code、国際標準レコーディングコード)です。日本レコード協会の規格 RIS 503(1989年制定、2023年改正)によると、ISRC は英数字12桁で、プレフィックスコード5桁(旧国名コード2桁と旧登録者コード3桁)、ISRCを割り当てた年を示す年次コード2桁、レコーディング番号5桁から成ります。日本では同協会が、国際的な登録管理機関である IFPI(国際レコード産業連盟)から任命された国内の登録代行機関を務めています。
同規格の基本原則には、新たに制作されたレコーディングと、変更が加えられたレコーディングには常に新しい ISRC を割り当てること、ISRC は録音を識別するコードであって権利者を示すものではないことが定められています。また登録者が管理すべき項目として、曲名やアーティスト名と並んで「レコーディングマスタ完成年月日」が挙がっています。マスターの完成は、録音物の身元が確定する日でもあるわけです。リマスター版や別ミックスにどのコードを使うかは、レーベルや配信代行事業者の運用を事前に確認しておく必要があります。

出口ごとに別のマスターを作る理由 — 配信・CD・アナログ盤
ここまでの話を合わせると、一つの曲に「唯一の正しいマスター」があるわけではないことが分かります。Apple の資料は、マスタリングエンジニアは媒体や形式の制約と、聴き手の聴取環境の両方を考慮すると述べ、例としてアナログ盤を挙げています。アナログ盤は飛行機や車の中で聴かれることが少ないため、より広いダイナミックレンジを味わえる環境を想定してマスタリングされることが多い。クラブ向けのマスターなら、フロアの騒音の大きさを考慮するかもしれない、という説明です。
アナログ盤には、前述のとおり溝という物理的な制約があります。カッティングでは、低音を弱め高音を強めて刻み、再生時に逆の補正をかける「RIAAカーブ」と呼ばれる特性を使うため、高域が強すぎる音源や、左右で位相のずれた低音を含む音源は、針飛びやひずみの原因になるとされます。東洋化成の取材記事では、カッティングエンジニアの手塚和巳氏が、アナログテープのマスターなら30Hz以下の超低域の処理も自然で、高音過多も起きにくいため無理なカッティングをせずに済む、と語っています。デジタルの配信用マスターをそのまま盤に刻むのではなく、盤のための調整をした別のマスターを用意するのはこのためです。
CDと配信のあいだでも、求められるものは違います。CDは16ビット・44.1kHzの PCM と、曲間を含むサブコードを DDP で渡します。配信は多くの場合、24ビットの高解像度ファイルを渡し、音量はサービス側の正規化を前提に考えます。音圧を上げきったマスターは正規化で下げて再生され、潰したダイナミクスは戻りません。どの出口を主に想定するかによって、同じ曲でも仕上げ方が変わります。
| 出口 | 渡すもの(例) | 主な制約・確認点 |
|---|---|---|
| 配信 | 24ビットの PCM(WAV等)、曲ごとのファイル | 正規化を前提にした音量、インターサンプル・ピーク、ISRC |
| CD | 16ビット・44.1kHz の DDP | ディザ、曲間とトラック位置(PQ)、ISRC、JAN/UPC |
| アナログ盤 | 盤用に調整した高解像度ファイルまたはテープ | 片面の収録時間と音量、高域の強さ、低音の位相 |
表は典型例で、実際の入稿仕様は工場や配信代行事業者ごとに異なります。
依頼の前に決めておくこと — マスタリングを生かす発注
マスタリングの中身が分かると、依頼するときに伝えるべき情報も見えてきます。音の好みよりも先に、出口・曲順・識別情報を決めておくことが、仕上がりと手戻りの両方に効きます。
- 出口を決める。配信だけか、CDやアナログ盤も作るか。出口ごとに別のマスターが必要かどうかで、作業量と料金が変わります
- 曲順と曲間の意図を伝える。アルバムやEPなら、曲をつなげて聴かせたい箇所、間を空けたい箇所を共有します
- 識別情報をそろえる。ISRC やJAN/UPC(商品コード)を誰が取得し、誰がデータに埋め込むかを決めておきます
- ミックスの状態を整える。最終段のリミッターを外し、ピークに余裕を残したミックスを渡します(詳しくは 外注の記事)
- 確認の方法を決める。試聴用ファイルの形式と、修正を何回まで含むかを事前に合意します
DDP の作成やコードの埋め込みまで含むかどうかは、エンジニアによって幅があります。範囲を確認しておけば、「音は仕上がったが工場に出せない」という事態を防げます。
マスタリングやカッティングに対応できるエンジニアを探す場合は、職種やジャンルで絞り込める ミュージシャンを探す が使えます。業務委託の案件として条件を示して募る場合は 仕事を探す に掲載でき、音楽業界の外から初めて音源制作を依頼する企業向けには 企業の方へ で進め方を説明しています。
マスタリングは、音を大きくする作業でも、魔法のように音を良くする作業でもありません。ラッカー盤に溝を刻んでいた時代から、作品を媒体という器に収め、工場や配信へ間違いなく渡すための最終工程でした。その中身を知っておくと、何を頼み、何を自分で決めておくべきかがはっきりします。
本記事の規格・仕様は、執筆時点(2026年10月)に各団体と事業者が公開している情報に基づきます。配信サービスや工場の仕様は変わることがあるため、納品の前には最新の案内を確認してください。波形やラウドネスを数値で読む方法の全体像は 波形を読む技術 で整理しています。
参考・出典
- Apple Digital Masters: Music as the Artist and Sound Engineer Intended(Apple・技術資料、2021年4月版。マスタリングの道具、ディザ、Sound Check、1dBの余裕、afclip、24ビットでの提出)
- CD用マスタDDPファイル互換性ガイドライン(日本レコード協会 情報・技術委員会・2005年。CDマスター媒体の変遷とDDPの運用)
- RIS 503 国際標準レコーディングコード(ISRC)(日本レコード協会・1989年制定、2023年改正。ISRCの構成と基本原則)
- RIS 505 ISRC管理運営規程(日本レコード協会。ISRCの申請方式)
- Disc Description Protocol(Doug Carson & Associates。DDPの概要とライセンス)
- アナログレコード用ラッカー盤カッティング その3 東洋化成(照井和彦・JAS Journal 2018年3月号、日本オーディオ協会)
- Quantization and Dither: A Theoretical Survey(S. P. Lipshitz, R. A. Wannamaker, J. Vanderkooy・Journal of the Audio Engineering Society 40巻、1992年)
- Loudness normalization(Spotify for Artists。アルバム単位と曲単位の音量調整)
- Recommendation ITU-R BS.1770(国際電気通信連合。ラウドネスとトゥルーピークの測定)