イヤホンで音楽を聴いているのに、ボーカルが頭の外、少し前の空中に浮かんで聞こえる。顔を横に向けると、音が部屋に置かれたように動かずに残る。2021年に Apple Music が「空間オーディオ」を始めてから、こうした体験はスマートフォンの標準機能になりました。けれども、左右2つのスピーカーしかないイヤホンで、なぜ上や後ろの音が表現できるのかは、意外に説明されていません。
答えは、人間の耳と脳が音の方向を割り出すときに使っている「手がかり」にあります。手がかりを測って再現すれば、2本の信号でも空間を描ける。一方で、手がかりは人によって違うため、誰にでも同じように効くわけではありません。
この記事では、聴覚の仕組みから記述方式の違い、ヘッドホン再生、ミックスを依頼するときの確認点までを順に見ていきます。規格や製品の情報は執筆時点(2026年10月)のものです。
耳は2つなのに方向がわかる — 時間差・音量差・耳介の手がかり
右から来た音は、右耳に先に届き、左耳には頭を回り込んで少し遅れて届きます。この到達時間の差を ITD(Interaural Time Difference・両耳間時間差)と呼びます。頭の幅はおよそ20センチメートル前後なので、真横から来た音でも差は最大で約0.6ミリ秒にすぎません。それでも聴覚は数十マイクロ秒の差を聞き分けられるとされ、正面から少しずれただけの音源の位置を判断できます。
もう一つの手がかりが ILD(Interaural Level Difference・両耳間レベル差)です。波長が頭の大きさより短い高い音は、頭が壁になって反対側の耳に届きにくくなり、左右で音量に差が出ます。逆に波長の長い低い音は頭を回り込むので、音量差はほとんど生じません。
この二つを組み合わせて説明したのが、英国の物理学者レイリー卿(Lord Rayleigh、本名ジョン・ウィリアム・ストラット)が1907年に発表した論文「On our perception of sound direction」です。低い音は時間差(位相差)で、高い音は音量差で方向を判断するという考え方で、現在も「二重説(duplex theory)」として教科書に載っています。境目はおおむね1.5kHz前後とされます。
前後と上下は「耳たぶ」が教える
ただし、時間差と音量差だけでは決められない方向があります。真正面と真後ろ、あるいは斜め前上と斜め後ろ下のように、左右の耳から等しい距離にある点の集まりでは、ITD も ILD も同じ値になります。この曖昧な領域は、頭の横に円錐が開いたような形になることから「混同の円錐(cone of confusion)」と呼ばれます。
この曖昧さを解くのが耳介(いわゆる耳たぶ)と頭・肩の形です。耳介の複雑なひだは、音の来る方向によって特定の周波数を強めたり打ち消したりします。とくに数kHz以上の高い帯域に、方向ごとに異なる「くぼみ」や「山」が刻まれ、脳はこの音色の違いを手がかりに上下や前後を判断していると考えられています。
音源から鼓膜までの間に、頭・耳介・肩がどう音を変えるかを、方向ごとに周波数の特性として表したものが HRTF(Head-Related Transfer Function・頭部伝達関数) です。空間オーディオの技術の多くは、この HRTF をどう測り、どう使うかの工夫だと言えます。また、首をわずかに動かしたときに手がかりがどう変化するかも、脳は方向の判断に使っています。この点は後で触れるヘッドトラッキングにつながります。
電話線のステレオから22.2chへ — 「空間を運ぶ」140年
音の方向を遠くに運ぶ試みは、録音技術とほぼ同じくらい古いものです。1881年、パリの国際電気博覧会で、フランスの技術者クレマン・アデール(Clément Ader)は、オペラ座の舞台に並べた送話器の音を電話線で会場に送り、来場者に左右の耳それぞれに受話器を当てて聴かせました。左右で異なる位置の音を聴くことで、舞台の広がりが感じられたと伝えられています。のちに「テアトロフォン」と呼ばれるこの仕組みは、2チャンネル音響の最初期の例として知られています。
録音の世界でステレオの理論を体系化したのは、英国の技術者アラン・ブルムライン(Alan Blumlein)です。EMI の名義で1931年に出願された英国特許394325号は、2本のマイクで方向の情報を捉え、2本のスピーカーで再生する方法や、レコードの1本の溝に2チャンネルを刻む方式までを含んでいました。ブルムライン自身はこれを「バイノーラル(binaural)」と呼んでいますが、現在の言葉ではスピーカー再生の「ステレオ」にあたります。
横の広がりから「高さ」へ
その後、映画館の5.1チャンネル(前方3本・後方2本・低音専用1本)が広まり、方向の表現は水平面を一周するようになりました。次に加わったのが「高さ」です。
日本では NHK が8K 映像と組み合わせる音響として 22.2マルチチャンネル音響 を開発しました。NHK の技術者による解説によれば、聴取位置の上方に上層9チャンネル、耳の高さに中層10チャンネル、下方に下層3チャンネルを置き、低域効果用(LFE)の2チャンネルを加えた計24チャンネルの構成です。この配置は国際規格 ITU-R BS.2051 と国内規格 ARIB STD-B59 で規定されており、2018年12月1日に始まった BS8K 放送では、ほとんどの番組がこの方式で制作されています。
チャンネル・オブジェクト・シーン — 空間を記述する3つの方式
空間オーディオという言葉は一つの技術を指すわけではありません。音の配置をファイルにどう書き込むかで、大きく3つの方式に分かれます。
チャンネルベースは、最初から「どのスピーカーで何を鳴らすか」を決めて記録する方式です。ステレオ、5.1ch、22.2ch がこれにあたります。作り手の意図がそのまま再生されるのが利点ですが、家庭にそのとおりのスピーカーがなければ、別のチャンネル数に作り替える(ダウンミックスする)必要があります。
オブジェクトベースは、ボーカル、ギター、効果音といった素材一つひとつを「音」と「位置の情報(メタデータ)」の組で記録し、再生する側の機器が手元のスピーカー配置に合わせて鳴らし方を計算する(レンダリングする)方式です。Dolby Atmos は2012年に映画館向けに登場し、最大64本のスピーカーに対して、128の音の要素を同時に扱えると発表されました。音楽制作向けの資料では、7.1.2チャンネルの「ベッド」(チャンネルベースの土台)と、最大118の「オブジェクト」を組み合わせてレンダラーに送る流れが示されています。ソニーが2019年1月に発表した「360 Reality Audio」も、ボーカルや楽器に距離と角度の位置情報を持たせるオブジェクトベースの方式で、配信フォーマットには国際標準の MPEG-H 3D Audio を採用しています。
シーンベースは、個々の音源ではなく「ある一点を包む音場全体」を球面の数学的な成分に分解して記録する方式で、代表が Ambisonics(アンビソニックス) です。英国の数学者・音響技術者マイケル・ガーゾン(Michael Gerzon)が1973年に米国オーディオ技術協会(AES)の学会誌に発表した論文「Periphony: With-Height Sound Reproduction」で、水平と高さの両方を含む音場を4チャンネルで記録する方法(B フォーマット)が示されました。360度動画や VR では、視聴者が向いた方向に合わせて音場全体を回転させやすいため、現在もよく使われます。
方式をまたいで受け渡すための「共通語」
方式が乱立すると、制作したファイルを別の機器や放送局に渡すのが難しくなります。そこで国際電気通信連合(ITU)は、チャンネル・オブジェクト・Ambisonics・バイノーラルのいずれの音声でも、中身と形式を同じ書き方で記述できるメタデータの規格 ADM(Audio Definition Model・ITU-R BS.2076) を定めました。Dolby Atmos の制作ツールも、納品用の書き出しとして ADM のメタデータを埋め込んだ BWF(Broadcast Wave Format)ファイル、いわゆる ADM BWF を用意しています。WAV 系のファイル形式の基本は WAV・FLAC・MP3・AAC の違い で扱っています。

ヘッドホンで頭の外に聴かせる — バイノーラル化と HRTF の個人差
スピーカーを何十本も並べられる家庭はわずかです。空間オーディオが一気に身近になったのは、ヘッドホンやイヤホンで再生する バイノーラル化 の技術が実用になったからです。
仕組みは、前半で見た HRTF を使います。「右斜め上45度から来る音は、左右の耳にこう届く」という特性をあらかじめ測っておき、各オブジェクトの位置に応じた HRTF を音にかけ合わせて(畳み込んで)、左右2チャンネルの信号を作ります。耳元で鳴っているのに、耳の手前で時間差・音量差・耳介の音色の変化が付け加えられているため、脳は「その方向から来た音」と解釈します。
HRTF の測定データは研究機関が公開してきました。代表例のカリフォルニア大学デービス校の CIPIC HRTF データベース(2001年公開)は、45人分(音響測定用ダミーヘッド KEMAR の2種類の耳を含む)について、1人あたり1,250方向(左右の耳で計2,500本)のインパルス応答を、頭や耳の寸法とともに収録しています。こうしたデータから、耳の形が違えば HRTF も大きく異なることがわかっています。
「他人の耳」で聴く問題と、その対策
他人の HRTF で作ったバイノーラル音は、自分の耳介の手がかりと合わないため、音が頭の中に貼り付いて聞こえたり(頭内定位)、前の音が後ろに聞こえたりしやすいとされます。これを和らげる対策が二つ実用化されています。
一つは HRTF の個人化 です。Apple は iOS 16 で「パーソナライズされた空間オーディオ」を導入し、TrueDepth カメラを搭載した iPhone で顔の正面と左右の耳を撮影して、本人向けのプロファイルを作れるようにしました。Dolby も制作者向けに個人化 HRTF を作るツールを用意しています。
もう一つは ヘッドトラッキング です。イヤホンの動きセンサーで頭の向きを検出し、頭を回したぶんだけ音の位置を逆に回して計算し直します。首を動かしたときに音が部屋に固定されたままだと、前節で触れた「動いたときの手がかりの変化」が得られるため、前後の取り違えが減り、音が頭の外に定位しやすくなるとされます。
制作側にも調整の余地があります。Dolby Atmos のレンダラーでは、オブジェクトやベッドのチャンネルごとに、ヘッドホン再生時の距離感を「オフ・近い・中間・遠い」の4段階から選ぶ「バイノーラルレンダーモード」をメタデータとして書き込めます。ただし、Apple Music のように再生側の機器が独自のレンダラーでヘッドホン向けに変換する場合もあり、制作時にヘッドホンで確認した聞こえ方と、聴き手の手元での聞こえ方が一致するとは限りません。

配信サービスでの空間オーディオ — 何が届いているのか
聴き手の側から見ると、空間オーディオはまず配信サービスの機能として現れます。
Apple は2021年5月17日、Apple Music で「ドルビーアトモスによる空間オーディオ」を同年6月から追加料金なしで提供すると発表しました。発表では、H1 または W1 チップを搭載した AirPods と Beats のヘッドホンでは、ドルビーアトモスの曲を自動で再生するとしています。
同じ「空間オーディオ」でも中身は違う
注意したいのは、「空間オーディオ」と表示される音には、性質の違う二種類が混ざっていることです。
一つは、制作者がオブジェクトや多チャンネルで 専用にミックスした音源 です。もう一つは、通常のステレオ音源を、再生機器の側で疑似的に広げて聴かせる ステレオの空間化 です。後者は機器の機能であり、作品として空間に配置し直されたものではありません。聴き比べて評価したり、配信用に制作を依頼したりする際には、この二つを分けて考える必要があります。
また、同じ Dolby Atmos のファイルでも、7.1.4 のスピーカー、サウンドバー、スマートフォンの内蔵スピーカー、ヘッドホンでは、レンダラーがそれぞれの環境に合わせて鳴らし方を計算します。作り手が一つの状態を聴いて完成とするステレオとは違い、どの環境でも破綻しないことが仕上がりの条件になります。
空間オーディオのミックスを依頼するとき — 確認したい6つの点
空間オーディオの制作は、通常のステレオのミックスとは別の作業として発注されることが一般的です。依頼する側と受ける側で事前にそろえておきたい点を整理します。ミックスとマスタリングの基本的な役割分担は ミックスとマスタリングの順番 にまとめています。
- フォーマットと配信先 — Dolby Atmos か 360 Reality Audio か、映像付きか。配信事業者ごとに受け付ける仕様が異なるため、Dolby の資料も「最新の仕様は配信事業者に確認するように」としています
- 素材の形 — マルチトラック(パラデータ)を渡すのか、ステム(楽器群ごとにまとめた音)で渡すのか。オブジェクトとして動かしたい音が分かれていないと、配置の自由度が下がります
- ステレオとの関係 — 既存のステレオマスターがある場合、音量感や音色をどこまで合わせるか。空間版は別作品として作り直すのか、ステレオに寄せるのかを先に決めます
- 納品物 — Dolby の制作ワークフローでは、レンダラーから Dolby Atmos のマスターファイル、ADM BWF、チャンネルベースの書き出しが出力されます。何を、どのサンプリング周波数で納めるか(Dolby は96kHz でのマスター作成と48kHz での出力を案内しています)を決めておきます
- 確認の環境 — 7.1.4 などのスピーカー環境で確認するのか、ヘッドホンのバイノーラル再生のみか。制作者の環境と、依頼者が確認に使う環境を共有しておくと、評価のずれが減ります。スピーカーで確認する場合は部屋の響きも結果を左右します(部屋の響きを整える)
- 権利と表記 — 既存曲の空間版を作る場合は、マルチトラック素材の使用と配信について、原盤の権利者の了解を先に取っておきます。ミックスを担当したエンジニアのクレジット表記も契約で確認します
空間オーディオのミックスに対応できるエンジニアは、職種やジャンルで絞り込める ミュージシャンを探す から探せます。フォーマットや納品物を明記した業務委託の案件は 仕事を探す に掲載でき、初めて音の制作を依頼する企業向けには 企業の方へ で進め方を紹介しています。
空間オーディオで変わること、変わらないこと
空間オーディオは、140年前から続く「方向と広がりを運ぶ」試みの延長にあります。記録の方法は変わっても、土台にあるのはレイリー卿以来研究されてきた、両耳の時間差・音量差・耳介の手がかりです。
変わったのは、その手がかりを 計算で作り出せるようになったこと と、聴き手の手元の環境に合わせて最後に組み立てられるようになったこと です。オブジェクトベースの方式では、ミックスは「完成した音」ではなく「どこに何を置くかの設計図」として届き、再生機器が仕上げます。HRTF の個人化やヘッドトラッキングは、その仕上げを一人ひとりの耳と頭の動きに近づける工夫です。
変わらないのは、個人差という壁です。他人の耳で測った手がかりでは、前後の取り違えや頭内定位が起こりやすく、同じ音源でも人によって印象が変わります。制作者がスピーカーとヘッドホンの両方で確認すること、配信先の仕様を事前に確かめることは、こうした違いを前提にした実務上の答えだと言えます。
そして、多くの聴き手はいまもステレオで音楽を聴いています。空間版はステレオを置き換えるものではなく、聴き方の選択肢を増やすものです。
参考・出典
- On our perception of sound direction(Lord Rayleigh・Philosophical Magazine 13巻・1907年)
- Periphony: With-Height Sound Reproduction(Michael A. Gerzon・Journal of the Audio Engineering Society 21巻・1973年)
- The CIPIC HRTF Database(V. R. Algazi ほか・IEEE WASPAA・2001年)
- 新 4K 8K 衛星放送の放送技術について(柏木美菜・花田彰・大久保洋幸/NHK・JAS Journal 59巻1号・2019年)
- Recommendation ITU-R BS.2051: Advanced sound system for programme production(国際電気通信連合・最新版 BS.2051-3 は2022年)
- Recommendation ITU-R BS.2076: Audio Definition Model(国際電気通信連合・最新版 BS.2076-3 は2025年)
- Dolby Atmos Music Content Creation Quick Start Resources(Dolby Laboratories・2023年)
- Sony Introduces All New 360 Reality Audio Music Experience(Sony Electronics・2019年1月7日)
- Apple Music announces Spatial Audio with Dolby Atmos; will bring Lossless Audio to entire catalog(Apple・2021年5月17日)
- AirPods や Beats でパーソナライズされた空間オーディオを聴く(Apple サポート・執筆時点で参照)