いまシンセサイザーと聞いて思い浮かべるのは、鍵盤のついた電子楽器か、パソコンの中で動くソフトウェア音源でしょう。けれども「電気で音を作って演奏する」という発想は、鍵盤どころかスピーカーさえまともにない時代から始まっていました。最初期の装置は重さ200トンに達し、電話回線で音楽を配信しようとしていたのです。

シンセサイザー(synthesizer)という言葉は、音を「合成する(synthesize)」装置という意味です。何を合成し、演奏者が何を操作できるのかは、時代ごとの技術によって大きく変わってきました。発電機、真空管、トランジスタ、マイクロプロセッサ、デジタル信号処理と、部品が替わるたびに楽器の形も、作れる音も、演奏の仕方も変わったのです。

この記事では、シンセサイザーの歴史を「誰が何を発明したか」の年表ではなく、演奏者がどこまで音を思いどおりに操れるようになったかという視点でたどります。根拠には、発明者自身の特許、学会論文、メーカーや標準化団体の公式資料を使います。

発電機で音を作り、電話で届ける — テルハーモニウムの挑戦

電気で楽音を作る楽器の出発点としてよく挙げられるのが、アメリカの発明家サディアス・ケーヒル(Thaddeus Cahill)のテルハーモニウム(Telharmonium)です。ケーヒルは1897年に、音階の12の基本音を12台の発電機で作る設計の特許を得ています。

仕組みは、発電所の発電機を小さくしたようなものでした。モーターで回す軸に、切り込みを入れた円盤を取り付け、コイルのそばで回すと交流の電流が生まれます。円盤の切り込みの数と回転の速さで電流の周波数、つまり音の高さが決まります。IEEE の技術史サイト(ETHW)によると、最終型は発電機を145台備え、重さは200トン、長さは60フィート(約18メートル)あり、複数の鍵盤を少なくとも2人で演奏する必要がありました。

切り込みの入った金属の円盤が長い軸に並び、ベルトでつながったモーターが回している発電機群をローポリゴンで描いた図
テルハーモニウムの発電機の模式図。軸に取り付けた円盤の切り込みの数と回転の速さで、生まれる交流の周波数(音の高さ)が決まる

スピーカーのない時代の「配信」

ケーヒルが目指したのは、演奏会場で鳴らすことではなく、電話線で音楽を各地に届けることでした。レストランやホテル、家庭に向けて有料で音楽を流す構想です。1901年までに試作機が動き、最終型は1906年に完成し、最後の1台は1911年にニューヨークの演奏室に据え付けられました。

ところが、強い電流を電話網に流したことで近隣の通話に雑音が混じり、住民の反感を買ったとされます。演奏は第一次世界大戦のころまで断続的に続いたものの、装置は解体され、録音は1つも知られていません。真空管による増幅がまだ実用化の途上だった時代に、発電機そのものの出力で音を届けようとした結果、装置は巨大にならざるを得なかったのです。

それでも、回転する円盤で正確な周波数を作り、複数の周波数を足し合わせて音色を作るという考え方は、のちの電子オルガンや加算合成(倍音を1本ずつ足して音色を組み立てる方式)につながっていきます。

手をかざして弾く — テルミンと戦前の電子楽器

テルハーモニウムの巨大さを一気に解消したのが、真空管による発振回路(一定の周波数の電気信号を作り続ける回路)です。ロシアの物理学者レフ・テルミン(Leon Theremin)が1920年に発明したテルミンは、その代表です。

テルミンのアメリカ特許(第1,661,058号・1928年2月28日登録、ドイツでの優先日は1924年12月8日)を読むと、仕組みはこう説明されています。2つの高い周波数の発振器をわずかにずらして動かし、その差の周波数(うなり)を耳に聞こえる音として取り出す。演奏者の手がアンテナ(電極)に近づくと、手と電極のあいだの静電容量が変わって片方の発振器の周波数がずれ、差の音の高さが変わる。もう片方の手で別の電極を操作すると、音量が変わる。

体のどこにも触れずに音程と音量を連続的に変えられるという点で、テルミンは画期的でした。半面、鍵盤やフレットのような目印がないため、正確な音程で弾くには高度な技術が要ります。

戦前の電子楽器が広まらなかった理由

戦前にはほかにも、フランスのオンド・マルトノ、ドイツのトラウトニウムといった電子楽器が生まれました。のちにロバート・モーグ(Robert A. Moog)は1964年の論文で、これらの楽器を振り返り、広く普及しなかった理由の1つを演奏者が音を制御できる範囲が狭かったことに求めています。音程や発音の立ち上がりは変えられても、倍音の構成(音色)を演奏中に連続的に変えることはできなかった、という指摘です。

この「何をどこまで操れるか」という問題意識が、のちのシンセサイザーの設計思想の中心になっていきます。

紙テープで鳴らす作曲の機械 — RCA の「電子音楽シンセサイザー」

「シンセサイザー」という名前を正面から掲げた初期の装置が、アメリカの電機メーカー RCA の研究所で作られました。技術者のハリー・F・オルソン(Harry F. Olson)とハーバート・ベラー(Herbert Belar)は、1955年にアメリカ音響学会誌(Journal of the Acoustical Society of America)に論文「Electronic Music Synthesizer」を発表しています。

この装置は、鍵盤で弾く楽器ではありませんでした。音の高さ、音量の変化(エンベロープ)、音色などのパラメータを、穴を開けた紙テープに符号として記録し、それを読み取らせて音を鳴らします。いわば、演奏ではなく「プログラム」で音楽を作る機械です。

ETHW によると、RCA はこの装置をレコードや映画音楽の制作で演奏家の費用を減らす目的でも開発しましたが、事業部門は採用しませんでした。一方で前衛的な作曲家たちは強い関心を示し、改良型の Mark II はコロンビア=プリンストン電子音楽センターに寄贈され、作曲の道具として使われました。

「演奏する楽器」と「組み立てる装置」の分かれ道

モーグの1964年の論文は、当時の大きなスタジオについて、各音のパラメータを符号でプログラムし、作品全体を「再生」させることができると紹介しつつ、その操作は骨が折れ時間がかかると書いています。小さなスタジオでは、測定器などを組み合わせて1音ずつ作り、録音したテープを切り貼り(スプライス)して作品にしていました。

電子音楽は、まず作曲家が机の上で組み立てるものとして発展したのです。これを「その場で弾ける楽器」に引き戻したのが、次に見る電圧制御でした。

電圧で音を操る — モーグの論文とモジュラー・シンセサイザー

1964年10月、ニューヨークで開かれたオーディオ技術学会(AES: Audio Engineering Society)の第16回年次大会で、ニューヨーク州トルーマンズバーグの R. A. Moog Company を率いるモーグが、論文「Voltage-Controlled Electronic Music Modules(電圧制御の電子音楽モジュール)」を発表しました。

論文の前提ははっきりしています。電子音楽の作曲家は、符号で制御する装置よりも、すぐに理解でき、手早く組み立てられ、従来の楽器のように即興で「弾ける」装置から恩恵を受けるはずだ、というものです。そのために提案されたのが、音を作る・加工するモジュールを、すべて電圧で制御する仕組みでした。

電圧制御という共通言語

電圧制御(voltage control)とは、発振器の音の高さ、フィルターの効き具合、増幅器の音量といった性質を、外から加える電圧の大きさで変える方式です。論文では、可変周波数の発振器(VCO)と可変利得の増幅器(VCA)の回路を示し、制御電圧と周波数の関係を4オクターブの範囲で上下端の誤差10セント(半音の10分の1)程度に収めた測定結果を載せています。

この方式の強みは、制御する側も電圧なので、モジュールどうしを自由につなげることです。鍵盤は押した鍵に応じた電圧を出す装置になり、ゆっくり揺れる発振器の出力をフィルターに送れば音色が周期的に変わり、音の立ち上がりと減衰を作るエンベロープ・ジェネレーターの出力を増幅器に送れば音量の時間変化を作れます。

モジュールのあいだはパッチコード(両端にプラグの付いたケーブル)でつなぎ、つなぎ方を変えれば別の楽器になります。のちには、制御電圧が1ボルト上がると音が1オクターブ上がるという指数関係の約束事が、多くのアナログシンセサイザーで広く使われるようになりました。

木の枠に収めたモジュール式の装置の正面パネルを斜めから寄りで捉え、たくさんのつまみとジャックのあいだを色とりどりのパッチコードが結んでいる様子をローポリゴンで描いた図
モジュラー・シンセサイザーの模式図。発振器・フィルター・増幅器などのモジュールをパッチコードでつなぎ、電圧で互いを制御させることで音を組み立てる

テルミンの時代に欠けていた「音色を連続的に操る」手段が、ここで初めてつまみとケーブルの形で演奏者の手に渡ったと言えます。

鍵盤が音色を記憶する — 和音とマイクロプロセッサ

モジュラー型は自由度が高い反面、大きく高価で、ケーブルのつなぎ方を毎回再現するのも大変でした。1970年代には、主要なモジュールをあらかじめ内部で結線した持ち運べる一体型が登場し、ステージやスタジオでの利用が広がります。

それでも残った課題が2つありました。1つは和音です。初期のシンセサイザーの多くは、同時に1音しか出せないモノフォニックでした。もう1つは音色の記憶です。つまみの位置で音色が決まる以上、曲ごとに音色を変えるには、その都度すべてのつまみを回し直す必要がありました。

プログラム可能なポリフォニック・シンセサイザー

この2つを同時に解決した製品として知られるのが、アメリカの Sequential Circuits(現 Sequential)が1978年の冬の NAMM ショー(米国の楽器見本市)で披露した Prophet-5 です。名前のとおり5音を同時に出せる5オクターブ鍵盤の楽器で、つまみで作った音色を記憶して呼び出すことができました。

同社は発売40周年の発表で、Prophet-5 を「世界初の完全にプログラム可能なポリフォニック・シンセサイザー」であり、マイクロプロセッサ(小さなコンピュータの中枢となる半導体)を内蔵した最初の楽器だと位置づけています。「初」の評価はメーカー自身によるものですが、音色の記憶がこの時期に実用の水準に達したことは確かです。

音を作る部分はアナログ回路のままで、その設定値をデジタルで記憶して呼び出す。この組み合わせによって、シンセサイザーは「毎回つまみを回して作る装置」から「音色を持ち歩ける楽器」になりました。

計算で音色を作る — チョウニングの FM 音源と DX7

アナログ回路で音を作る方式とはまったく別の道が、大学の計算機室から開けました。スタンフォード大学のジョン・チョウニング(John Chowning)は、1967年秋のある夜、研究所の大型計算機で実験をしていて、周波数変調(FM: frequency modulation)を耳に聞こえる速さで使うと、複雑な音色が生まれることに気づいたと振り返っています。

FM はラジオ放送でおなじみの技術で、ある波(搬送波)の周波数を、別の波(変調波)で揺らす方式です。揺らす速さが音の周波数と同じくらいになると、搬送波の上下に側波帯と呼ばれる新しい周波数成分が次々に生まれます。チョウニングは1973年、オーディオ技術学会誌(第21巻第7号)に論文「The Synthesis of Complex Audio Spectra by Means of Frequency Modulation」を発表し、側波帯の強さがベッセル関数に従うこと、変調の深さ(変調指数)を時間とともに変えれば音色の変化を簡単に制御できることを示しました。

特許からライセンス、そして楽器へ

この方式は、スタンフォード大学を権利者とするアメリカ特許(第4,018,121号「Method of synthesizing a musical sound」・1975年5月2日出願、1977年4月19日登録)になりました。特許の説明には、発音の立ち上がりから減衰まで倍音の構成が変化することで、自然に聞こえる音を作れると書かれています。

ヤマハの紹介記事によると、同社はこの技術のライセンスを1981年の最初の FM 製品より7年ほど前に得ており、最初の製品はエレクトーン(電子オルガン)の F70 でした。そして1983年に発売されたデジタル・シンセサイザー DX7 は、チョウニング自身が「分水嶺」と呼ぶ製品になります。

方式音の作り方代表的な操作
加算合成正弦波(倍音)を1本ずつ足し合わせる各倍音の音量
減算合成(アナログ・シンセサイザー)倍音の多い波形をフィルターで削るフィルターの遮断周波数・共振
FM 合成波の周波数を別の波で揺らして倍音を生む周波数比・変調指数

FM 音源は、ベルや金属的な打楽器、エレクトリック・ピアノのような、フィルターで削る方式では作りにくい音を得意としました。一方で、パラメータが音色にどう効くかが直感的に分かりにくく、音作りの難しさもよく語られます。

楽器どうしが話す共通の言葉 — MIDI 1.0 から 2.0 へ

1980年代の初め、シンセサイザーはメーカーごとに異なる方式で他の機器とつながっていました。ある社の鍵盤で別の社の音源を鳴らすことは、簡単ではなかったのです。

MIDI の業界団体(The MIDI Association)の資料によると、のちの MIDI につながる提案は、1981年の AES で Sequential Circuits のデイブ・スミス(Dave Smith)が発表した「Universal Synthesizer Interface(汎用シンセサイザー・インターフェース)」の論文に始まります。1983年の NAMM ショーでは、Sequential の Prophet-600 とローランドの Jupiter-6 を1本のケーブルでつなぎ、異なるメーカーの楽器が互いを鳴らす実演が行われました。

日米5社で始まった規格

同団体は、当時 MIDI に取り組んでいたのは Sequential Circuits、河合楽器製作所、コルグ、ローランド、ヤマハの5社だけだったと紹介しています。ローランドは、梯郁太郎が1972年4月に大阪で設立した会社です(同社の有価証券報告書の沿革による)。規格の管理団体 MMA(MIDI Manufacturers Association)は1985年5月に非営利の業界団体として正式に発足しました。

MIDI は音そのものではなく、「どの鍵を、どの強さで押し、いつ離したか」といった演奏の情報を送る規格です。このため、同じ演奏データで別の音源を鳴らしたり、シーケンサー(演奏データを記録・再生する装置)で複数の楽器を同じテンポで動かしたりできるようになりました。テンポの同期の歴史は クリックと同期演奏 で詳しく扱っています。

展示会の長い机の上に、メーカーの異なる2台の鍵盤楽器が1本のケーブルでつながれて並んでいる様子を少し離れた位置から描いたローポリゴンの図
異なるメーカーの楽器をつなぐ実演のイメージ。MIDI は音ではなく演奏の情報を送る規格で、鍵盤とは別の会社の音源を鳴らせるようにした

37年ぶりの大改訂

MIDI 1.0 は長く使われ続け、2020年1月に、日本の音楽電子事業協会(AMEI)と The MIDI Association が MIDI 2.0 の中核仕様を採択しました。機器どうしが互いの機能を問い合わせる仕組み(MIDI-CI: MIDI Capability Inquiry)などが整えられ、1983年の実演から37年を経て、演奏情報の言葉そのものが改訂されたことになります。

歴史をたどると見える「操作できる範囲」の広がり

ここまでの流れを、演奏者が操作できるものの広がりとして整理すると、次のようになります。

  • テルハーモニウム(1890年代〜1910年代): 電気で正確な音程を作り、倍音を足して音色を作れたが、装置は巨大で、演奏の場も限られた
  • テルミンと戦前の電子楽器(1920年代〜): 真空管で小型化し、音程と音量を連続的に操れるようになったが、音色の変化は限られた
  • RCA の装置(1950年代): あらゆるパラメータを指定できたが、それは紙テープ上の「プログラム」で、即興では弾けなかった
  • 電圧制御のモジュール(1960年代〜): 音色を含むすべてをつまみとケーブルで、その場で操れるようになった
  • 記憶と和音(1970年代後半〜): マイクロプロセッサが音色を記憶し、複数の音を同時に出せるようになった
  • FM 音源と MIDI(1980年代〜): 計算で音色を作り、楽器どうしが共通の言葉で演奏情報をやりとりするようになった

シンセサイザーの歴史は、新しい音を作る歴史であると同時に、作曲家の机の上にあった音作りを、演奏者の手元に取り戻していく歴史でもありました。いまパソコンの中で動くソフトウェア音源も、発振器・フィルター・エンベロープ・FM といった、この記事でたどった仕組みの組み合わせで作られています。

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参考・出典